“氣”的に幽霊って何なの?って話ですが、
師匠によりますと「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」だそうです。
つまり、“気のせい”。
怖い怖いと思っていると怪しいものが恐いものに見えるという格言ですが、真実をついているそうです。
墓石や仏壇は“氣”を溜めやすいものなのですが、自然にも“氣”が溜まりやすいものや場所があるそうです。昨今流行った“パワースポット”もそれですね。
石や木は“氣”を溜めやすいもので、巨石や巨木は信仰の対象になってますし、山もそうですね。こういったものは器としてありますので、風や陽の光で散じやすい“氣”を留めるのですが、
逆に風通しが悪く陽が差さない所は“氣”が澱みやすいのだそうです。
さて、その澱んだ“氣”の場所、例えば心霊スポットなどと云われている場所は大勢の人が「あそこは何かがいる」、「あそこは怖い」という思いが“氣”として溜まっている状態だそうです。そこに霊感がある(という)人が、そこにある“氣”に形を与えてしまうと霊現象になるそうです。
大雑把ですが、うちの師匠によると
霊感がある人というのは、“氣”に敏感で、“氣”の波長の調整が出来てしまう人だそうです。で、霊能者はその調整を意識的に出来る人なのだそうです。
でもって、その霊感のある人の内には他人の調節を自分のチューニングに同調させ得る人がいるのだそうです。師匠曰く「集団ヒステリー」だそうです。“氣”が伝播すると。
ちょっと話がそれますが、結構有名な宗教画で、聖人が天使に導かれて昇天していく様を大勢の人が目撃している図というものがあります。天に召される聖人を人々が驚きを持って見上げているのですが、それとは別に人々が驚愕し注目している存在がいるのです。それは小さな子供で、明らかに“ひきつけ”を起こしている様で、一部の人は聖人と幼子の両方を指差して両者の関係性を示唆しているかのような構図となっております。中世に描かれた宗教画にも、ある種の神秘体験はこうした“霊媒”による“集団幻覚”、“集団ヒステリー”の産物ではないのか?ということを匂わせるものが、実は結構あります。まぁ、教会という権力者に歯向かう芸術家の反抗といった作品もあるでしょうが。“奇跡”を目撃して感動のあまりに白目を剥いてひきつけてる子供の図というのは、ちょっとシュール過ぎますしね。